プレゼンス(安らぎと幸福の技術)
今日は、「プレゼンス(安らぎと幸福の技術)」ルパート・スパイラ著からの引用です。
帯の裏にこう書かれています。
私たちの自己はそもそも安らかなのです。私たちの本質的な平安は、あらわれの性質や状態に左右されません。平安が自己なのです。幸福は平安と同じく、私たちの自己に本来備わっています。幸福は自己そのものなのです。平安、幸福、愛は、私たちの存在の内にいつでもあって、いかなる状況の、いかなる体験の瞬間にも触れることができます。これは私たちがたどり着くことのできる、最も重要な発見です。
こういう文書を読むと、昔、引っかかるところがありました。
平安、幸福、愛は、私たちの存在の内にいつでもあって、いかなる状況の、いかなる体験の瞬間にも触れることができます。
ウソだろ。「いかなる体験の瞬間も」って書いてあるけど、強烈な痛みの最中や、悲しみのどん底、ものすごく怒っている時に、平安や幸福があるわけないじゃないか!
そう呟いたものです。
P49~P50を引用します。
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「生まれることも死ぬこともない自己」
思考を介さずに、存在(ビーイング)のそれ自身の体験にそっと寄り添うと、
そこには、生まれ、成長し歳をとり、死ぬという知識がないことがわかります。
対象物である体と心は、あらわれては消えていきます。生まれ、成長し、衰え、朽ちて死ぬのは体と心です。
私たちの自己、気づいている現存(プレゼンス)はそのことを知っていますが、その対象となることはありません。
そもそも、こうした外見や変化と私たちの本質的な存在とを一対一で結びつけたのは思考だったのですが、
私たちはやがてこうした性質を共有すると信じ、感じるようになってしまいました。
この信念は深く刷り込まれ、私たちの存在の不可欠な部分となったかのように見えるため、
私たちはそれが単なる信念であり感情であったことを忘れ、私たちの自己に関する、絶対的で疑いようのない真実であると捉えます。
そして、いつしかこの信念と感情は、そこから派生するすべての思考と感情、また、ほとんどの活動や関係性の拠り所となるのです。
しかしながら、あなたは、今起こっている思考、体が感じている感覚、この本に印刷されている文字、世界に対する知覚に気づいているということに着目してください。
昨日の思考や感情に気づいていたのも、この同じあなたではなかったでしょうか?
去年の、一昨年の、十年前の、二十年前の、三十年前の思考、感情、感覚、知覚に気づいていたのも同じあなただったのではないでしょうか?
子宮の中にいた頃、最初の感覚、知覚に気づいていたのも、同じあなただったのではないでしょうか?
それは他でもないあなた自身が得た感覚であり、この本の文字を読んでいるのもまた、あなたなのではないでしょうか?
その時も、今も、あなたはあなたなのではないでしょうか?
もし、それらを知り、体験したのが違うあなたなら、今のあなたはどうしてそれらのことを覚えているのでしょうか?
「私が初めて通った学校」と言うとき、その「私」と、今の考えが属している「私」とは、同じ「私」、同じ自己であるはずです。
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私とは、なんなのか?、私とは?と、自分自身に問うと、わけがわからなくなった時が幾度もありました。
思考をめぐらしても、答えはでません。ぼよよーんとして、真っ白になってしまいます。
時を超えて、存在しつづけている「私」、それを、ルパートスパイラは「生まれることも死ぬこともない自己」と呼んでいます。
対象物である体と心は、あらわれては消えていきます。生まれ、成長し、衰え、朽ちて死ぬのは体と心です。
私たちの自己、気づいている現存(プレゼンス)はそのことを知っていますが、その対象となることはありません。
そもそも、こうした外見や変化と私たちの本質的な存在とを一対一で結びつけたのは思考だったのですが、
私たちはやがてこうした性質を共有すると信じ、感じるようになってしまいました。
変化する体や心、それを自分(本当の我)だと勘違いしていった経緯が書かれています。
「本当の我」のことを、ルパートは、私たちの自己、気づいている現存(プレゼンス)と表現してます。
本当の我=私は、絶えず変化する体や心では、ないことはっきり述べています。
本当の我は、生まれも死にもしないのです。
ここまで読んで、「ああよかった」と思われた方は、救われます。
あなたは、ソレをすでに知っているということを思い出したのです。
今後のイベントなど
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