わかっちゃった人たち(悟りについて普通の7人が語ったこと)

今日は、「わかっちゃった人たち」サリー・ボンジャース (著), 古閑 博丈 (訳)です。

この本を読んで、確信したのです。日本だけでなく、世界中で、目覚めという現象が起きていることに。覚者や聖者、スピリチュアルティーチャーだけでなく、普通に生活している人たちが、目覚めを経験しているとう事実は、世界全体が目覚めの方向に向かっていると思いました。

序文のP11~引用します。
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探求が起こっていないとき、<一体性>が明らかになる。<一体性>の中では、生はすでに完全だ。
それだけでなく、生が初めからずっと完全だったことがはっきりする。

一生続いてきた探求の根っこにずっとあったのは、生は完全ではないという思い込み、<全体>から切り離された個人が存在しているという思い込み、<一体性>はどこかにあるものでここにはないという思い込み、<一体性>はいわゆる「未来」に存在するという思い込みだ。そしてこの思い込みのせいで、人は数えきれないほどのさまざまなやり方で完全へと到達しようとして、酒やドラッグや瞑想に手を出してきた。
そのすべてが、例外なくたったひとつの欲求、つまり<源泉> へ戻りたいという欲求の表れだ。でも当たり前だけれど、個人には絶対に<源泉>を見いだすことができない。と言うのも、そもそも個人は初めから<源泉>の完璧な現れだからだ。これが、死ぬまでずっと探求を続けるという事態が起こってもおかしくない理由、続けてしまう人が実際にいる理由だ。探しているものがまさに目の前で自分の顔をじっと見つめているのに、それに気づかない。なぜかと言えば、探求するのに忙しすぎて、それどころじゃないのだ!

だがときとして、この本に登場する人たちが自分なりの言葉で見事に表現しているように、探求が脱落するということが起こったりする。自分は分離して独立したひとりの人間だという感覚が脱落してしよう。

この脱落が起こると、世界にあるありふれたものたちが秘密を明かす。その秘密は想像していたのとはまるで違う。それは宗教も、イデオロギーも、信念も、そして「覚醒」や「悟り」といった概念も超越したものだ。自由だ。何の条件もない。その秘密は今にありすぎて、それについて何か言ったところで、そんな言葉はすぐに灰になってしまう。それはどんな目標とも、達成とも、欲求とも、後悔とも、スピリチュアルな成就とも、世俗的な失敗とも、まったく関係がない。自分とはまったく何の関係もないのだ。それは今あって、ここにある。
これはトニー·パーソンズの言葉で言えはオープン·シークレット、つまり公然の秘密だ。あまりにうまく隠されていて、あらゆるものとして現れているのに、文字どおりあらゆるものとして現れているのに、人にはそれが見えないのだ。
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多くの人が目覚めの一瞥を体験すると、太字で書いたようなことが、わかり驚愕する。私という個人はなくなり(というかもともとなかったということに気づく)、ある人は、いままでの努力はなんだったのかと、茫然とする。

この文章で書いた「多くの人」や「ある人」など存在しなかったこともわかる。

ただ全体だけが、「ソレ」とか「これ」といわれる何かだけがあることに。

訳者のあとがきで、この本の価値がどこにあるかが明確に述べられいます。

「訳者のあとがき」P189~引用
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悟りや覚醒についての本は無数にある。仏教や禅やアドヴァイタは言うまでもなく、あらゆ文脈で教えが語られている。おなじみのラマナ·マハルシやニサルガダッタ·マハラジやクリシュナムルティに加え、最近では多くの「目覚めた人たち」がインターネットを含めたいろいろな場でそれぞれの多様な表現を展開している。そんな中でこの本に何か意味があるとしたら、それは普通の人たちが素のままで、そして教えるという文脈ではないところで体験を率直に話しているという点にあるのだろう。

プロの話し手あるいは表現者による悟りの教えは、たいていとても洗練されている。ある意味では聞く側に親切にできている。だが、その洗練の分だけ何かが失われているような印象もある。悟りはそもそも言葉では語れないものだとはよく言われることだが、それをわかりやすく語ろうとするとき、肝心な何かが抜け落ちてしまう恐れはないだろうか。その点、この本で自分の経験を語っている7人の言葉は洗練からはほど遠いものだ。繰り返しも多いし、話が行ったり来たりするし、数行前に言ったことと矛盾している言葉が平気で出てきたりもする。
さらには自分の経験について語るのが初めてだという人もいたりして、聞き手の反応など関係なく、回想つぶやきモードに入ってしまっていたりもする。だがそこには不思議なリアルさがある。そのリアルさに触れるとき、世界が奇妙な質感をもって迫ってきたり、自分とは誰なのかという理解が揺らいだり、突如理由のない爆笑や号泣が生じたりすることがあるかもしれない。あるいは、そんなことがまったく何も起こらなくても今のままで十分だったんだという安心感がやって来たりするかもしれない。

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私も訳者の古閑 博丈さんが語っているように、本を読んだ時、「そこには不思議なリアルさ」を感じた。このリアルさは、「それは普通の人たちが素のままで、そして教えるという文脈ではないところで体験を率直に話しているという点にあるのだろう。」から来ているものだと私も思ったのです。

そんな意味で、この本は他の悟り系の本とは違う異色の本といえるかもしれません。

今日も、クリックして幸せに♡

今後のイベントなど

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