これのこと
今日は、「これのこと」ジョーイ・ロット (著)を紹介します。
カバーに次のように書かれています。
ーーーー
僕が言っている「これ」っていうのはなんのことだろう。
ただのこれだ。これがなんであれ。
まったく今あるとおり。たった今のこれ。
思考より前。概念より前。ただこれ。
なんであれ、直接の経験で見つかるもの。
ーーーー
一瞥体験などをして、非二元がさしているものが、腑に落ちた方は、まさにそのとおりと思うでしょう。でも、ほとんどの方は、何をいっているかわけがわからないと思います。
ジョーイ・ロットの文章が素晴らしと思えるのは、多くの悟りティーチャーやノンデュアリティティーチャーが伝えることを、シンプルな言葉をつかって指示していることだと思います。
p137~「エックハルト·トールの美しい表現」の章より引用します。
ーーーー
あなたは著書の中で「隠されているものはなにもない」、「これがそれだ」と、はっきり、言っていますね。それは私も気に入っているんですが、それと同時にエックハルト·トールのこんな言葉にも惹かれるところがあって私には響きます。
「外に現れたかたちの美を超えて、ここにはなにかがあります。
名前をつけることのできないもの。言葉で表しようがないなにか。深遠で、奥深くにある、
神聖な本質が。あなたが今ここにいるときにだけ、それはみずからの姿を現します」
これは魅力的に聞こえます。でもあきらかに、あなたの「隠されているものはなにもない」
という言葉と真っ向から食い違っています。
あなたとエックハルト·トールは違う立場に立っているという意味なのでしょうか。
それとも同じことをふたつの異なるやりかたで表現しているということでしょうか。
当たり前だけど、人によって、性格によって、表現方法には違いがある。それぞれが同じことを指してるかどうか、それはわからない。でも良い知らせは、そんなのはどうでもいいってこと。
あきらかにエックハルト·トールはきれいな響きの言葉を使うのを好んでる。僕よりも。彼の言葉はしゃれた感じに聞こえる。ひとつひとつ 見ていこう。
「外に現れたかたちの美を超えて」っていう表現は、「外側」と「内側」があるってことをはじめから前提にしてる。それから、外側にあるものを超えたなにかが存在してるってことも意味してる。
ここでできるのは、それが本当かどうかを見てみるってこと。「超える」ってことがありえるだろうか。「超えた」ところに実際になにかを見つけられる?
「名前をつけることのできないもの」という部分には賛成。というのは、今あるものに名前をつけることはできないから。名前をつけるっていうのは、今あるものをなにかに限定しようとすることだ。でもそれはできない。
今あるものという現実にはどこにも境界がなくて、名前なんかつけられないから。不可能だ。
「深遠で、奥深くにある、神聖な本質」。まあ、ただの美辞麗句だ。重要じゃない。
「あなたが今ここにいるときにだけ、それはみずからの姿を現します」。僕ならそんな言い方はしない。
なにしろ、今ここにいるもなにも誰も存在してないんだから。今あるってことがあるだけ(笑)。
ちなみに、わざわざそんなことを言うこと自体が無意味になる。今あるってことは存在するすべてだから。
単に今あるものだ。「今ここ」とか「今ここにある」なにかがあるわけじゃないし、もっと「今ここ」にいたり、「今ここ」にいることを達成したりできる人がいるわけでもない。
やってみればわかる。そんなことはできない。意味がない。起こるとしても、経験が変わったように見えるってだけだ。それはいずれにしたってずっと起こってる。なにも意味してない。
ほかの経験よりも神聖な経験、よりスピリチュアルな経験、より冒涜的な経験、より重要な経験、あーまり重要じゃない経験なんてものはない。全部ただ経験が起こってるっていうだけだ。
というわけで、エックハルト·トールはそんなふうに表現してるけど僕の好みとは違う。
でもここで大事なのは、どう表現したところでそれは現実そのものではありえないってこと。
彼の言葉の中に「名前をつけることのできないもの」っていう部分があるけど、まさにそのとおりで、もし名前をつけられたとしたらそれは違うってことになる。言葉で表現できるとしたらそれも違う。理解できるとしたらそれも違う。
どう表現したところでそれは指標でしかない。僕がどんな言葉を使うとしても、それは真実じゃない。
真実ではありえない。ただ指し示してるだけだ。明白なものを。今あるものを。自分であるものを。
分離はない。
ーーーー
ここで、ジョーイ・ロットが言っているように、エックハルト·トールの本を読んでいるときれいな響きの言葉にうっとりすることがあります。ただ、これは、読者を別のものをイメージさせてしまう危険性もはらんでいると感じていました。(←これは、ある意味、しかたがないことだとはおもいますが)
下記の指摘は、するどいと思いました。多分、エックハルト·トールは、ジョーイ・ロットが指摘していることをわかっていて、この表現をしたのだと思います。もしかしたら、そうでない可能性もありますが(^^;
「外に現れたかたちの美を超えて」っていう表現は、「外側」と「内側」があるってことをはじめから前提にしてる。それから、外側にあるものを超えたなにかが存在してるってことも意味してる。
ここでできるのは、それが本当かどうかを見てみるってこと。「超える」ってことがありえるだろうか。「超えた」ところに実際になにかを見つけられる?
ジョーイ・ロットの本を読むと、シンプルな表現が指すもの、今ここにある、表現できないあきらかなものに気が付くことが多々あると感じました。
まさかジョーイ・ロット「これのこと」を取り上げてくれる人がいるとは思いませんでした。ありがとうございます。とにかく、いろんなメソッドや修練方法などを、バッサリと切り捨てるところが痛快で面白かったです。地球さん、こんな本を紹介していいんでしょうか。
松山さん、ある意味、この本は過激かもしれません。これまでいいとされてきたメソッドをバッサリ切り捨てている本ですから。
しかし、この本は、真理をある角度から正確に伝えていて、どこか未来に悟りがあるという幻想を、切り捨ててくれます。
また、〇〇をすれば、●●が得られるという幻想も捨てされる可能性を秘めた本だと思うのです。
一方で、この視点だけを、握りしめてしまうと、虚無に陥る危険性のある本ともいえるでしょう。
はじめて訪問しました。ジョーイロットで検索してたどり着きましたが、私はこれは読む必要がないです。なぜならもう「これのこと」の状態でこれを書いています。本当に、シンプルで、ただこれです。ただの意識です。
ただの意識なんだど、これにたどり着くのに10年近くかかりました(笑)私もエックハルトトールなど数々のリーダーの本は読みましたが、確かに言葉ではないが言葉に捕われてしまうという現象に悩みました。私の最後の師になったのはムージです。ムージはとても美しい言葉で悟りを表現し、それもかなり的確です。私は少なくともムージほど的確な師は居ないと感じました。生活しながら意識を探していた状態から、意識として毎日生活するということへの変化。180度変わりました。外の世界が変わったかと言えば、変わったとも言えますし変わっていないとも言えます。日本のリーダーで的確で宗教に捕われていない悟りの師はまだ知りません。