つかめないもの
今日は、「つかめないもの 」ジョーン・トリフソン (著)を紹介します。
「はじめに」P6~引用します。
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これは解放についての本です。解放というのは、地震や戦争や破産や失業やガンが消えてなくなることでもなければ、悲嘆とも鬱とも不安とも依存とも無縁の人生のことでもありません。
解放とは、これが<聖なる現実>であって、<聖なる現実>はどこか別の場所にあるわけではないとわかることです。解放とは、根本的な問題は今この瞬間にしか解消できず、そして実際には解消すべきものなど何もないという認識です。解放とは、制限の中に自由を見いだし、不完全さの中に完璧さを見いだすことです。解放とは、まったく今あるとおりにある自由です。
でも、自分とはいったい何なのでしょうか? <ここ·今>に何が実在しているのでしょうか?
生とは何なのでしょうか? この言葉を読んでいるのは誰なのでしょうか?
この言葉を読むという行為は個人が選択した結果でしょうか、それともそれはこの瞬間に宇宙全体が行いえる唯一の営みなのでしょうか?
そこに違いはあるのでしょうか? 解放をもたらす修行はあるのでしょうか、
それとも まさにそういう考えが、解放されていない誰かが存在しているという幻想、解放は「今ではなく」未来のいつかに起こるものだという幻想を強化しているのでしょうか?
この本ではこういった疑問について探っていきます。
この本の目的は、疑問に対して答えを差し出すことではありません。むしろこの本が目指しているのは、こうした疑問の土台にある前提を崩すこと、抱えているように思える問題や矛盾がじつは幻影だったと明らかにすることです。
読みながら、先入観をもたずに耳を傾けて調べてみてください。この本は古い信念を新しい信念に入れ替えるためのものではありません。
信じる信じないに関係なく存在しているものを見つけませんかという誘いなのです。
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ジョーン・トリフソンの下記の言葉が印象的でした。
「この本の目的は、疑問に対して答えを差し出すことではありません。むしろこの本が目指しているのは、こうした疑問の土台にある前提を崩すこと、抱えているように思える問題や矛盾がじつは幻影だったと明らかにすることです。」
私達は、解放とはどうしたら起こるのか、それにいたる方法はあるのかと、覚者や聖者に質問します。
しかし、その質問の前提となっているものを崩すことが本の目的で、それが起これば、そもそもこの質問自体が無意味だと気づくというわけです。
「生」の章のP10~引用します。
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私はいまでも悲しみ、落胆、怒りの爆発、憂鬱や不安の高まりを経験することがあります。
そして依存的で強迫的な行動が再発することもときにはあります。以前よりも起こる頻度は減っていて、それほど激しくもなくなり、続く時間も短くなっているように思いますが、なくなってはいません。
そして全体に目を転じてみれば、世界は依然として苦しみや不正であふれています。
変わったと思えるのは、自分はひとりの独立している人間であって、「自分の人生」を抱えているその自分が自分自身や世界をいつかは完璧にするだろうという思考感覚が落ちたという点です。
生はショーの全体、光と闇の両方を含んでいて、そのどこにも個人的なものはなく、すべてが努力なしにひとりでに、起こりえる唯一のやりかたで起こっていて、そのどこにも実体や永続性がないという認識があります。
そして人間の苦しみや混乱の大半を引き起こしている余計な努力とは何なのか、私たちがどうやって自分をみじめにしているか、ということもはっきりとわかっています。
これがはっきりしたことで、迷妄の誘惑の言葉が現れたときでも騙されることが減りました。
何かが欠けているとか、解決策はどこか「別の場所」にあると自分が考えていることに気づいたときには、一度も離れたことがない <ここ·今>にくつろぐことが以前よりもずっとうまくできるようになっています。
「自分自身」や「世界」を意図的に直したり改善したりしようとするかわりに、すべてがそれぞれのやりかたでそれぞれのペースでそれ自体を癒すのをそのままにしておくことも、以前よりもできています。
と言っても、私がそうしなくてもひとりでにそうなるわけですが。今この瞬間にあるまったくそのままの生という直接性にどんな解釈も加えず、ただゆだねるということが起こっています。この裸の親密さは、目的志向で改善追求型の肩に力の入った努力でもなければ、消極的で運命論的なあきらめでもありません。
それは活動的に生き生きとしていることであり、すべてを含みながら何にも固執しない開かれたありかたです。
それは「あなた」が達成したり手にしたりするものではなく、無境界性、まったくそのままであるということにほかならず、それは今この瞬間にいつもすでに完全にまさにここにあります。
この分離のない出来事の中では不完全さと切り離された完璧さはないこと、光と闇は波頭と波間のように同時に生じること、光と闇は引き離せないことがわかると、そして美点も欠点も含めてすべてがまったく今のままで神聖だということに気づくと、大きな安心がもたらされます。
宇宙にとって何が最善なのかは私にはわかっているという思い込みは、ありがたいことに消散しつつあるようです。そしてそういう思い込みが出てきたときも、そこにあるのは、どちらかといえば可愛らしさです。
ほら見てよ、ジョーンがまた心配のちょっとしたダンスを踊っているね、と。
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上記の文章で、「私はいまでも悲しみ、落胆、怒りの爆発、憂鬱や不安の高まりを経験することがあります。」という部分が、ジョーン・トリフソンの正直さをあらわしていると思いました。多くのスピリチャルティーチャーや悟りの発信者は、自分のダメな部分を語ろうとしません。
これを語ってくれることによって、覚者と呼ばれる人たちも、私たちがイメージした完璧な人ではないことがわかります。
探求が終わる前と後の違いは、「「自分の人生」を抱えているその自分が自分自身や世界をいつかは完璧にするだろうという思考感覚が落ちたという点です。」と優しく語っています。
この本は、非二元に興味を持った人が最初に読めば、以降の理解は格段に進むと思います。つまり、非二元の基本書と言っていいかと思います。では、例によって、Yumiko Ema さんの朗読動画を貼っておきますね。
松山さん、コメントありがとうございます。朗読動画もあったのですね。紹介ありがとうございます。