静寂の瞬間(とき)ーラマナ・マハルシとともに その2
今日は、以前紹介したラマナ・マハルシの本を再度、紹介します。
P60から引用します。
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あなたは首まで水に浸かりながら、
水を求めて叫んでいる。
それは水中の魚が渇きを感じるような、
あるいは水が渇きを感じるようなものである。
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これは、探求者が、真我そのものの中にいるのに、外に真我を探している様子を例えた言葉です。
江戸時代の有名なお坊さんの白隠禅師も坐禅和讃(ざぜんわさん)で同じことを言っています。
衆生本来仏なり 水と氷のごとくにて 水を離れて氷なく 衆生の外に仏なし
衆生近きを不知(しらず)して 遠く求むるはかなさよ
譬(たとへ)ば水の中に居て 渇を叫ぶがごとくなり
ラマナ・マハルシも同じような例え話をしていたのだと、上記の文章を読んで気が付いたので、紹介した次第です。
私は、禅寺で修行していた時、この坐禅和讃(ざぜんわさん)に出会い、昔の禅のお坊さんは、お釈迦様以外に悟った人がいたのだと、びっくりしたものです。
禅の系譜で悟ったお坊さんが、沢山いたことにも、後で気づかされました。(仏教は、すたれて、もう、悟った人はいないと思い、嘆いたころのことです。)
P61~引用します。
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映画の画像の中の火がスクリーンを燃やすだろうか。
画像の中の滝の流れがスクリーンを濡らすだろうか。
真我というスクリーンの上に現われる現象でしかなく、それらが真我に影響を与えることはない。
真我はあるがままに輝き続け、動くことも、変化することもない。
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この例え話は、多くの覚者が、使う有名な「映画とスクリーン」の話である。
この例え話が指していることが、腹の底まで腑に落ちた人は、悟った人といえるだろう。(絶対的視点からいうと、悟った人など、どこにも存在しないのだが)