あなたの世界の終わり―「目覚め」とその“あと”のプロセス―
今日は、アジャシャンティの「あなたの世界の終わり―「目覚め」とその“あと”のプロセス―」です。
この本にはとても感謝しています。一瞥体験後のプロセスが詳細に書いているからです。
そして、目覚めの後の落とし穴にも言及されている点が、すばらしです。
「自分の人間性を避ける方法として、絶対へ固執する」の章、P58~引用します。
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私が教えていることは、自己改善計画と誤解されるべきではありません。
これは完全な人間になることについて、ではないのです。これは自分自身の内部に分離を引き起こしているものを見ることについてです。これは完全な人間になる目標をもつこととは、非常に異なることです。
なぜなら、目覚めと悟りは完全になったり、神聖になったり、聖人になることとは何の関係もないからです。
真に神聖なことは、全体から認識することで、それは内側で分割されないことを意味しています。
癒される必要があるのは、内部で私たちを分割しているものです。
目覚めの一瞥のあとに求められることは、根本的な正直さ、私たちが自分をどうやって悟りから追い出しているのか、どうやって自分を夢の状態の重力圏に戻すのか、どうやって自分に分離することをゆるすのか、そういったことをすすんで見ることです。
スピリチュアル教師として、人々をこの正直な状態へ連れて行ったり、そこへ行くように彼らに提案したりすることは、きわめて困難な場合があります。
なぜかと言えば、エゴ的構造の中には、自分のすべての内なる分離から離れる理由として、目覚めを使う強力な傾向があるからです。
私がここで話しているようないくつかの物事を提案するとき、たとえば、どこで私たちが自分を悟りから追い出すのかを認めるというようなことを提案するとき、私の生徒たちの中には「しかし、それをする人は誰もいません。ここにどんな人もいないのです。エゴと人は幻想です。ですから、内側を見る誰も本当にいないのです」とか、「もしするべき何かがあると認識するなら、その人は騙されているのです」などと言う人たちがいることでしょう。
目覚めの観点からは、問題はありません。
たとえ物事が完全な混乱であっても、目覚めの観点からは問題はありません。それゆえ、何もすることはありません。
どんなスピリチュアル教師も、こういった生徒たちに言いたいことを伝え、彼らが絶対的見方にのをやめさせることが、非常に困難な場合があります。
これが目覚めの危険性の一つ、偏った見方にしがみつく傾向です。私たちは目覚めの絶対的見方に執着し、それ以外のあらゆることを否定するのです。
自分の愚かな行動,思考パターン、分裂した感情状態を退ける言い訳に絶対を使いながら, それにこのようなやり方で固執するのは、実際エゴなのです。
私達ちはどんな見方にも執着するやいなや、他のあらゆることに盲目的になってしまうのです。
ですから私は、旅のこの段階で重要なのは、積極性、誠実な専念、そして自分自身に対して非常に正直になることだと強調するのです。
確かに、絶対的見方があります。何も問題がないことは、真実です。分離した自己がいないことも、真実です。
私が言っていることをするべき誰もいないのも、真実です。でも、私はこのエゴに対して話しているのではありません。
私はエゴに対してするべき何かがあるとか、するべき何かがないとか、と話しているのではありません。
分離したあらゆる自己感覚に対して話しているのでもありません。
私が話しているのは、”現実(リアリティ)それ自体”に対してです。スピリットがここにいるスピリットに対して話しているのです。
現実(リアリティ)が現実(リアリティ)に対して話しているのです。
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アジャシャンティが、上記の太字で書いているところは、ある時期、私が実際に陥った部分であり、多くの一瞥体験者あるいは、頭で絶対的真実を理解している人が陥るところです。
アジャシャンティのそれに対しての指摘も見事だと感じました。このブログを読んでいる読者の方は、どう感じたでしょうか?