ただそれだけ( セイラー・ボブ・アダムソンの生涯と教え)
今日は、オーストラリアの覚者・セイラー・ボブ・アダムソンの「ただそれだけ」( セイラー・ボブ・アダムソンの生涯と教え)です。カバーには、こう書かれています。
ニサルガダッタは、私が理解したつもりでいたすべての観念、心から信じていた信念や概念を取り去った。彼は私の心の中にあったあらゆることを根底から蹴り出したんだ。深遠な真理を見出したと思っても、そんなものは全然たいしたものではなかった。どんなに崇高な言い方をしても、言下に蹴散らされた。私にはいつも何も残らなかった。そうして、よって立つべきところがどこにもなくなってしまったんだ。
私も、それまでいただいていた真理に対する経験や概念をすべて打ち砕かれた時、最後につかむものがなにもなくなり、「立つべきところがどこにもなくなってしまったんだ。」という地点に立たされた時がありました。その時は、「これからどう生きていけばいいのか?」という思考に一瞬、悩まされたことを思い出します。
P157~引用します。
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たいていの人はメッセージを伝える人を崇拝し、そうすることによって、メッセージを見逃しています。
私たちがここで指摘しているのは、メッセージです。そして、私が言っておきたいのは、私は誰に語りかけているのでもなく、また、どんな心に語りかけているのでもなく、私であるところのあの「私は在る」、すなわち、「私は在る」という思考として、心を通じて表現しているあの存在感覚に対して語りかけているのです。
「私は在る」という思考に語りかけているのではありません。「私は在る」を認識し、知るものに私は語りかけているのです。ただそれだけに対してであり、それ以外の一切のものは対象ではありません。
ヒンドゥー教では、それはアドヴァイタと呼ばれており、「非二元」という意味です。彼らは、「二番目のないただ一なるもの」と言うことで真実在を描写しようとします。しかし、一つというその概念さえ、一つ以外の何かがあることを示唆しています。
そういうわけで、それを再びそのむき出しの本質にまで引き下ろすと、ただそれだけがある、ということになるのです。そしてそれは、マハーヴァーキャ、つまり偉大な言葉、偉大なマントラです。我、それなり。汝、それなり。これはそれなり。あれはそれなり。一切はそれなり。ここで言われているそれとは、存在ないし本質の感覚のことです。
私が使う観念もまた真理そのものではありません。私はただ「それ」という言葉を使うことができるだけです。なぜなら、真理は観念によってつかまえることができないからです。観念とは心的素材から成るものであり、あなたは真理を心でつかまえることはできないのです。もしあなたが想像したり期待したりすることを止め、過去を思い出すことも止めれば、あなたはどこにいるでしょうか?
あなたは自分が一度も去ったことがない、今·ここという直接体験の中にいます。
実際のところ、私たちはこの、今·ここという存在性から離れたことは一度もないのです。
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セイラー・ボブ・アダムソンが述べている「たいていの人はメッセージを伝える人を崇拝し、そうすることによって、メッセージを見逃しています。」はとても重要だと思います。
私はいろんなグループのグルor教師に集まる人たちが、ここに陥ってしまい、その師が伝えるメッセージを見逃している姿を多々見てきました。崇拝ではなく、尊敬に留めておき、メッセージに着目する必要があります。
セイラー・ボブ・アダムソンの本を読んでいて、素晴らしいと思ったのは、下記をちゃんと言及している点です。
「私が使う観念もまた真理そのものではありません。私はただ「それ」という言葉を使うことができるだけです。」
「私はただ「それ」という言葉を使うことができるだけです。」と言えるところに、セイラー・ボブ・アダムソンの誠実さを感じました。